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【キングダム】蒙恬の最後は自殺?史実ではどんな武将だったのか!

キングダム史実から見た蒙恬

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こんにちは!

今回はキングダムの「蒙恬」についてです!

 

マンガでは主人公信と同じ世代で、ずっと武功を競いながら戦っているライバルのような存在の蒙恬です。

では実際の史実から見たところはどんな武将だったのでしょうか。

マンガキングダムと比較しながら見ていきましょう!

 

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蒙恬って何歳なの?

 

史実では、生は不明で没は紀元前210年とされています。

ちなみにマンガの合従軍の戦いが紀元前241年、マンガで連載のギョウ攻めの戦いが紀元前236年です。

始皇帝(政)が中華統一するのが紀元前221年になりますので、時系列の参考にしてください。

 

ここからはマンガの設定ですが、黒羊の戦いが終わってから「信ももう22だろ?俺のイッコ下だから」という発言があります。

つまり黒羊の戦いの時点で蒙恬は23歳です。

そしてこの黒羊の戦いですが、ロウアイの反乱が紀元前238年なので、推測ですが紀元前236~237年ということですね。

この時点で23歳ということは、没の紀元前210年では49~50歳になります。

この時代の人物としては長生きではないでしょうかね。

 

 

蒙恬は文官だった

 

史実では、蒙恬は元々は文官でした。

文官として宮廷に入り、訴訟や裁判に関わっていたということです。

父は蒙武、祖父は蒙ゴウ、弟は蒙毅というのもマンガと同じです。

エリート一家であったというのも事実のようですね。

そしてその後武将として戦場に出て行き活躍をしたのでありました。

 

史実では紀元前225年に信の副将として楚を攻めたとあります。

先の戦いで勝利した蒙恬らですが、その後楚の武将の項燕によって大敗を期しています。

その後は斉の討伐、また中華統一後は北部の匈奴との戦いでも活躍したようです。

 

中華統一後は、また文官に戻っているようです。

匈奴との戦い後、その地に長城を築くことでも活躍したようです。

弟の蒙毅と共に、政治の分野で活躍し秦の始皇帝からも評価されていました。

 

 

蒙恬の最後は偽装された自殺

 

史実では武官よりも文官としての活躍が目立つ蒙恬です。

ですがその最後は、華々しいものでは無かったようです。

 

始皇帝(政)の死後、その後継ぎの争いに巻き込まれたのでした。

胡亥・趙高・李斯らの3人は、「蒙恬は自害せよ」という偽の政の詔書を作ります。

それを怪しみ抵抗していたが、始皇帝の後に即位した胡亥から自害命令が届き、それによって自ら命を絶ちました。

蒙恬の死後、弟の蒙毅も趙高によって殺害されており、蒙恬らの蒙家の一族は亡くなってしまったとのことです。

 

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最後に…

 

以上で史実から見た蒙恬はおわりになります!

 

マンガと違い、主に文官としての活躍が大きかったようですね!

特に匈奴征伐の後の長城の築城というのは、かなり功が大きかったみたいです。

黒羊の戦いの後に、貂が「蒙恬は築城の才能がある」ということを言ってるのも、こういった史実の背景があるからなんでしょうね。

 

そして政の後継者争いの中で、はめられて自ら命を絶ったようです。

政からの評価も高かったようですし、後継者からしたら面白くないのでしょう。

やはり才能ある者、出る杭は打たれるということなんでしょうね。

 

これから先、マンガの中ではどのように描かれていくのか楽しみですね!!

 

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